【変革】評価に対する考え方と通知簿を変えるための具体的提案 その1
令和2年度から指導要領が変わり、それに伴って通知簿の評価項目も変わります。
現行の4観点から新しく3観点に変わるようです。
具体的には
・個別の知識、技能
・思考力、判断力、表現力等
・学びに向かう力、人間性等
という3観点で評価していくようです。
現行の
・関心、意欲、態度
・思考、判断、表現
・技能
・知識、理解
にもすごく違和感を持っていましたが、新しい3観点でもすごく違和感を持っている項目があります。
それは
「学びに向かう力、人間性等」
です。
学習に向かう力やその人間性、姿勢や気持ちなどは学習者にとって非常に重要な項目であることは確かでしょう。
しかし、
・とても大切だけど、どうやって評価するのか
・そもそも、それは評価するべきことなのか
という疑問が絶えず生じているのです。
今回はその「評価」に対しての大切な考え方を、板倉聖宣氏(元国立教育研究所)の論文を引用しながら紹介していきます。
(以下、『仮説実験授業のABC』(仮説社)より引用しています)
【板倉氏の評価に対しての考え方】
態度や探究心ー大切だからこそ評価してはいけない
ただ、ぼくは「へたに心根の評価はしないでほしい」と思います。態度は評価しないでほしいのです。
「知識ばかり評価すると知識中心の子どもができてしまう。だから態度を評価してやりたい」という気持ちをもたれる先生がたくさんいますよね。そういう先生方の気持ちは、私にもわかるんです。わかるからこそ、私はやめてほしいと思うんです。
板倉氏は「態度」は大切だからこそ「評価してはいけない」と言います。
そして、その理由も述べています。
【評価してよいことといけないことがある】
知識ならば点をつけてもかまわない。それは人格に点をつけることではないからです。しかし、「心根がやさしい、やさしくない」などと点をつけてもいいものか、「態度がいい、悪い」で点をつけてもいいものかどうか。私は気になりますね。
知識は、真理かどうかきわめてはっきりしている。しかし、生き方については、それが真理であるか、先生の好みに合っていることがいいのか、ほんとうにわからないですよ。私は私の生き方が正しいと思っています。(中略)だけど、それを「これが真理だ」とおしつける立場から評価してほしくない。だから、「評価がだいじだ」というのは、評価は「ある意味でくだらない」ということを含んだ上でだいじなんだととらえてほしい、と思うんです。
知識は「評価して良い」が、態度や生き方については「評価して欲しくない」と板倉氏ははっきり言い切っています。
知識というものは、覚えているかどうかで評価できるし、場合によってはしなくてはいけない。たし算ができるようになったか、ひらがなが読み書きできるようになったか、あるいはやさしい漢字が読めるようになったか、書けるようになったか、ということは、冷酷に評価してもかまわない。客観的な事実は評価しても、だれもびくともしませんよ。(中略)
ところが、態度とか科学的探究心とか、評価されたらこれはショックですよ。
子どもたちは、いろんな評価をします。たとえば、くだらない授業でさわぐ子どもは、事実なのかケシカランやつなのか、わからないでしょ。時と場合によってちがうんです。くだらない授業でさわげる子どもは、英雄になることもあるし、けしからんやつになることもある。それも、いつも安定しない。それでいいんじゃないですかね。だから、「だいじなことは評価してはいけない」ということを考えてほしいと思うのです。
【通知簿をつける際の葛藤】
この板倉氏の考え方に大いに共感するようになってからというもの、特に「関心・意欲・態度」の項目のつけかたに困っていたこれまでの私でした。
ですから、私のこれまでの評価の仕方はこのような方法でした。
・「関心、意欲、態度」については基本◯をつけ、特に優秀な児童には◎をつける
→板倉氏が言うように「関心」や「意欲」で△をつけるのは、人間性を否定することになると思うから。
・「知識、理解」や「技能」は基本テストの点数でつける
→「テストの点数」が最も客観的な事実であるから
・「思考・表現」についても基本は◯、秀でている児童には◎をつける
→思考や表現は客観的には判断しづらいものだから
実際、ほとんどの先生が意識するかしないかに関わらず、同じような評価の仕方をしていると思うのですが、いかがでしょうか。
このように「無理に」評価をする先生も釈然としない上に、子どもや保護者もあいまいになるのも無理はありません。
次回は、そのような「曖昧さ」を排除した通知簿についての具体的提案をまとめたいと思います。
あなたの「評価」に対する考えを聞かせてください。
それではまた!