さすらい先生のHappy Life

先生であり、パパであり、男であり、ヒトである。みんながHappy Lifeを送れるように発信してみます。

【いじめの本質論】人は◯◯からいじめる

人はなぜ人をいじめるのか。

 

ふと、そんなことを考えてしまうときがあります。

 

子どもたちの明らかにいじめだと分かる案件であっても、問題はそう簡単ではありません。

 

そして、大人であったとしてもいじめがなくならない、というのが現状です。

 

現在、私はそういった「いじめ」「いじわる」が起こった際、ずいぶん余裕を持って対応できるようになりました。

 

それは私なりの「いじめた子」への対応が定まってきたから、というのが大きな理由です。

 

具体的な対応の仕方については以下の記事を参考にしてください。

wandering-teacher.hatenablog.com

 

これらの基本となっている考え方を今回は紹介していきます。

 

 

 

考えてみると、いじめには色々な原因があったり、複雑な人間関係がからんだりしていて、問題はなかなか簡単に解決しそうにありません。

 

「原因などない」「すべては心の問題だ」と言って複雑な問題を片付けてしまいたくなるかもしれません。

 

しかし、実はそうではないのです。

 

「いじめ」問題は

 

・とてもシンプル

・共通点がある

・「ある視点」を持って見れば、簡単にひもとける

 

ものがほとんどなのです。

 

今回、その「ある視点」をお伝えします。

 

【いじめが起こる原因はただ1つ】

いじめる側には「正義感」があるから

 

これが「人が人をいじめる理由」です。

 

・「人が正義でいじめるだって!?」

・「いじめというのは「悪い心」「意地悪な心」があるからではないのか?」

 

そう思う方も多いことでしょう。

 

この「人は正義でいじめる」という考え方は板倉聖宣氏(元国立教育研究所)によるものです。

 

今回は板倉氏の論文から「いじめ」や「正義」について考えていきたいと思います。

 

そして、「学校教育といじめ」「いじめと正義感と理想」「いじめと民主主義」について、幅広く考えられる機会となればと思います。

 

 

 f:id:wandering_teacher:20200220231933j:plain

 

ここからは板倉氏の論文を引用しながらまとめていきます。下線部は私、さすらい先生によるものです)

 

 【板倉氏による「いじめ」の本質論】

正義のあるところにイジメあり

 イジメル側には必ず何らかの正義感ー汚い奴をきれいにしてやろうとか、勉強できない奴を向上させてやろうとかーがあってね、それでシゴくと思うんです。

 それは多かれ少なかれ「自分自身はかつてそのようにシゴかれて向上した」という経験があるからでしょうね。たいていの人は「あの時はつらかったけど、あのおかげで現在の自分がある」と思い当たる。だから「たとえ本人がいやがっても、どうしても教えてやらなきゃならないことがある」ということを否定できる人は少ないんですよ。イジメが発生する根底には、そういうことがあると思いますよ。

 

板倉氏はこのように「いじめ」を「子どもの問題」と捉えず、「人間の問題」として述べています。

 

「先生」である自分自身を省みる機会となるはずです。

 

 だから、教育というのはたえずシゴキになる可能性があるわけです。学校というのは、できない子をできるようにするためにあるんだけど、できないことがいろいろある中で「何をこそ本当にできるようにしてやるべきか」ということがはっきりしてなくて、しかも「どうしたら確実にそれをみんなに教えられるか」という方法がまるで分からなかったら、シゴくよりしょうがない。「私だって苦労したんだ。努力しろ!」ということになる。目的について納得できないことを、しかも成果についてまったくアテにならないことをやらされたら、これはイジメられてるとしかいいようがないでしょう。歴史的にも「学校教育はイジメルことで成り立ってきた」といっていいような面があるわけです。

 

「学校教育はいじめることで成り立ってきた」という指摘は、かなり本質をついた理論だと思いますが、いかがですか?

 

おとなの価値観を反映するイジメ

 イジメっ子というのは、教師なり親なりの価値観を反映しているんですが、おとなは一応社会的な常識があるから、シゴくというってもそう徹底的にはやらない。そのことは、ある子どもたちからすれば「いいかげんだな」と感じられるわけです。そこで、「教師がちゃんとシゴかないなら、オレたちがちゃんと教育してやろう」ということになる。だから、根底には正義感がちゃんとあるんですよ。そう考えないと、クラス中の子どもが一致してある子をイジメるなんていうことは理解できない。個人的なウラミなんかでは、イジメが集団的になることは絶対に考えられないですから。

 それを、「近ごろの子どもはインサンになった」とか「社会のせいだ」なんていったって、どうしようもないわけでしょう。イジメというのはいつの時代にだってあったし、それはいつの時代だって正義の問題とくっついていた。ただ、鼻をたらしてるとか、汚いかっこうをしているとか、勉強できないとか、だらしないとか、そんなのはごく普通のことだったから、集団的なイジメの対象にならなかっただけのことでね。

 

私が「いじめ」を冷静に眺められる視点はこの「子どもは正義感からいじめる」という理論に納得したからです。

 

子どもの「いじめ」は大人、学校、先生の価値観を反映して起こっているわけです。

 

・「じゃあ、どうすればいいんだ!」

・「だとすれば、解決しないではないか!」

 

というご意見もあるかもしれません。

 

ここで、板倉氏は「解決策」に向かう大切な考え方を示してくれます。

 

 それで、イジメというのは正義感とか理想というものとくっついているんだから、その正義や理想をどう実現していくか、ということを教えていかなきゃならない。「イジメたりシゴいたりしたって、理想はそんなに簡単に実現しないんだ」ということ、でも、「別の方法でいけば、着実に実現することもあるんだ」ーそういうことを教えていかなきゃならないんですよ。正義というのは必ずおしつけを生むんで、「正義のおしつけがもたらした悲惨な結果から人類がやっとのことで学びとったのが民主主義なんだ」ということを教えなければならない。おしつけで実現できるような理想というのは、そんなものは理想でもなんでもないのだということ、そして民主主義というものをちゃんと教えてやらばければならないんです。

 

たのしい授業は民主主義を実感させる

 

 イジメの問題を解決するためには、教師が授業でイジメるのをやめなきゃならない。そりゃ、現在の学校教育を全部一度に変えるなんてことはできないけど、たとえ1時間か何時間かでも、たのしく学べるようなことをやれば、子どもたちも希望がもてるでしょう。強制されなくても、たのしくやっていても、自分たちのためになることがあるーそれで全部解決するわけじゃないでしょうけど、基本的にはそうやっていくよりしょうがない。イジワルしなくても、子どもたちがよろこんで勉強することがあるし、そういうことこそ学びがい教えがいのあることなんです。

 

 イジメを単に子どもの心の問題としてではなく、「正義感と民主主義」の問題としてとらえなおさないといけないと思うんです。正義というのは人々を結束させる、その強い力で排除もするから恐ろしいんですよ。そして、民主主義を教えるのに「こんなこともわからないのか!」なんてやったら、何を教えているのかわからなくなっちゃう。つまり、確実にイジメの問題を解決しようと思ったら、たのしい授業をやるしかない。たのしい授業がどうやったらできるか研究するしかないんですよ。それが一番の近道でしょ。(板倉聖宣『社会の法則と民主主義』仮説社)

 

f:id:wandering_teacher:20200221071554j:plain

【「いじめ」をなくすための唯一の方法は何か】

子どもの「いじめ」は大人の価値観を反映したものであることがわかりました。

 

つまり、先生を含む全ての大人が「いじめ」をやめなければならない、ということです。

 

そのための具体的な方法はただ一つ。

 

「民主主義」を教える
子どもをいじめなくとも学べる「たのしい授業をする」

 

ということです。

 

ここまで書いてきて、答えが一般的、抽象的になってしまったかもしれません。

 

・「民主主義を教える」とはどうすればいいのか?

・「たのしい授業」ってどうやればできるのか?

 

こういった疑問にはまた後日、記事にしたいと思います。

 

 

 

今回の「いじめの本質論」に関する記事、いかがだったでしょうか。

 

あなたの「いじめ」に関する視点、教えていただけると嬉しいです。

 

勉強させてください。

 

それではまた!