さすらい先生のHappy Life

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【哲学】宿題について考える

当たり前のように出ていたし、今も出している「宿題」

 

当たり前すぎてしっかり「宿題」について考えたことって案外ないのではないでしょうか。

 

今回は仮説実験授業の提唱者であり、元国立教育研究所の板倉聖宣氏の論文「宿題とは何か」を引用しながら、「宿題」について哲学してもらいたいと思います。

 

みなさん、「宿題ってなんのためにあるか答えてください」と言われたらなんと答えますか?

 

・学習したことを定着させるためにある

・家庭での学習習慣の確立のため

・親が出せと言うから

・ただなんのためか分からないけど出している

 

いろんな考えの人がいるでしょう。

 

それでは今から、板倉氏の考えやはるか前の書籍にある「宿題論」を見てみましょう。

 

そして、自分なりに「宿題」について再考していただくきっかけになれば嬉しいです。

 

ではいきましょう!!

 

 

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岩波書店『教育学辞典』の中の宿題論】

板倉氏が調べた中で発行年がもっとも古いのは岩波書店の『教育学辞典』(1931)だったようです。

 

この本の中にある「宿題論」を要約すると

「無統制な宿題」はよくないが、宿題は「自学自習の習慣を養成する上からも有効であるには相違ない」 

 ということのようです。

 

平凡社『教育学事典』の中の宿題論】

次は戦後にもっとも権威があったと思われている平凡社の『教育学事典』(1955)にある宿題論です。

 

この本には「宿題の可否」「正しい宿題」という項目を作り、

(1)正規の学校時間における学習の不足をおぎなうため。

(2)いわゆる予習・復習をさせ、学校における学習の効果をたかめるため。

(3)家庭で学習させることにより、家庭における子どもの非教育的な行動の時間的余裕をなくすため。

(4)自分で学習する習慣をつくるため。

(5)家庭と学校との協力をうながすため。

(6)家庭でなければできない学習をさせるため。

これらは目的による一応の分類であるが、じっさいには、このうちのいくつかがいっしょになっている。

と解説されているようです。

 

みなさんはどの考えに納得ですか?

 

板倉氏も述べていますが、「(3)家庭で学習させることにより、家庭における子どもの非教育的な行動の時間的余裕をなくすため」というのは、なんとも鋭い指摘だと思いませんか?

 

【宿題の定義にとって重大なのものは】

板倉氏は宿題を定義する上でこのように述べています。

 

宿題の定義にとって、強制の有無は本質的にもっとも重要である

私のように授業のたのしさを最優先する者からすると、強制の問題は避けて通ることができないのです。そして私は、強制を伴う宿題にはすべて賛成できないのです。

 

板倉氏が提唱した「仮説実験授業」は「押しつけの排除」をとても大切にしています。

 

そして何より、「楽しく学べたかどうか」を授業を見る上での最重要項目と捉えています。

 

その仮説実験授業を提唱した板倉氏ならではの「宿題論」が展開されています。

 

【宿題は学習の習慣をつけるのに役立つという考え方】

 岩波書店『教育学辞典』には「自学自習の習慣を養成する上からも有効であるには相違ない」 とあり、平凡社『教育学事典』にも「(4)自分で学習する習慣をつくるため」と書いてあります。

 

これは、今の学校現場でも非常に多くの先生が「宿題の意義」として述べるであろう「家庭学習の習慣の定着」を肯定する意見です。

 

私の勤務する学校でも「家庭学習の習慣づくり」のために「家庭学習調査」を行なっています。

 

しかし、板倉氏はこれには真っ向から批判します。

しかし、私はこれも認めることができません。いや、「これが一番もっともらしい考え方であるだけに、もっとも間違った考え方だ」とさえ思っています。

 私の宿題についての考え方は、かなり進歩的理想主義的と思われる人々ともかなり違っているようです。どうして、そんな食い違いが生ずるのでしょうか。

 それは一つには、宿題の語義に「強制を伴う」という理解をいれるか否かに係わっていると思うのですが、もう一つには私自身の体験が元になっていると思います。

と、板倉氏自身の考えを展開していきます。

 

【強制を意識するとなんでも嫌になるのが人間ではないか】

 じつは、「いくら自分のやりたいと思っていたことでも、そこに多少とも強制を意識するととてもいやになる」というのは、私にとっての大発見でもあったのですが、このような精神状態は私の場合とくに強いことがあるとしても、私だけの異常な出来事とは思えません。だから私は「強制的なものはできるだけ排除したほうがいい」と思うのです。

 

岩波書店『教育学辞典』や平凡社『教育学事典』で指摘されていることと、板倉氏が述べている考えでは、前提条件の段階で大きな違いがあることに気づきます。

 

それは板倉氏は「宿題は強制されてやるもの」とはっきり定義しているところです。

 

『教育学辞典』や『教育学事典』には「強制されてやるもの」という定義はありませんでした。

 

そして、その「強制されるもの」ということにこそ、板倉氏は大きな反発をしています。

 

一方で「強制されなければやらないではないか」という考えも当然あるでしょう。

 

「子どもに宿題を「自由にしていいよ」なんて言ったらやってこないわ!」

 

そう思う人もたしかにいるでしょう。

 

それも決して間違っていないでしょうし、ある面では正しいことだと私も思います。

 

しかし、私は板倉氏の考えをいつも忘れず、大切に持っておきたいとも思うのです。

 

板倉氏は「子どもの気持ち」「学習者の意欲」を何より大事にしているからです。

 

 私は、人間というものはもともと勤勉なものだと思うのです。小さな子どもたちを見てもそうです。絶えず活動しているほうが楽しいのです。休んでいるときが楽しいというのは、あまりにも働きすぎです。もしも、人間というものが勤勉なものだとしたら、できるだけ強制をしないで気持ちよく活動する方法を探し求めたほうがいいと思うのです。私は「そういうことがか可能だ」と信じています。そこで、多くの楽しい授業プランを作り、楽しい授業を提唱することができたと思うのです。

 

 最後は私的な思いになりましたが、宿題をだすとしたら、括弧付きの〈強制のない宿題〉だけにしてもらえないでしょうか。これは宿題大嫌い人間で勤勉な一人の人間からの切なる願いです。

 

「強制のない宿題だけにする」というのは今の学校現場では難しいかもしれません。

 

しかし、「できるだけ強制をしないで気持ちよく活動する方法を探し求める」ことは可能であるはずです。

 

【今の学校現場で「危険」なこと】

今の学校現場、そしてここ数年の私自身をふり返って「危険」だと感じることがあります。

 

それは、

 

・宿題を強制していることを意識していない
・強制することで家庭学習の習慣がつくと信じていると疑っていない

 

ことです。

 

「強制されると嫌になるが、勤勉だ」というのは板倉氏だけでなく、多くの人間はそうであるはずです。

 

ですから、私たち先生はいつもそのことを頭の片隅において「宿題」と付き合っていく必要があるでしょう。

 

そして、よりよい宿題の出し方を今後も模索し続けることが大切でしょう。

 

 

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以上、「「宿題」について哲学しよう!」でした。

 

様々な論文を引用し、私自身の考えを述べてみましたが、いかがえでしたか?

 

あなたの宿題に対しての考え方、思いを聞かせてもらえると嬉しいです。

 

それではまた!!!